横浜高校のエースとして注目される織田翔希投手について、「中学はどこだった?」「中学生ですでに何キロ投げていたの?」「シニアやボーイズ出身なの?」と気になっている人も多いのではないでしょうか。
結論からいうと、織田翔希投手の出身中学は福岡県北九州市小倉北区にある北九州市立足立中学校です。 北九州市の公式情報でも足立中学校は小倉北区萩崎町にある市立中学校として掲載されており、週刊ベースボールONLINEの選手プロフィールにも「足立小―足立中―横浜高」という経歴が記載されています。
さらに興味深いのが、中学時代に所属していたのはシニアやボーイズといった硬式クラブではなく、足立中学校の軟式野球部だったことです。
中学3年夏には軟式球で最速143キロを計測。足立中と富野中による合同チームで福岡県大会を制し、九州大会3位を経て全国中学校軟式野球大会へ進みました。全国大会では4番・投手として出場し、本塁打まで放っています。
しかも、織田投手が注目され始めたのは中学3年の全国大会だけではありません。中学1年の段階から地元の野球関係者に能力を高く評価され、中学2年ではエースとして結果を残し、3年夏に一気に全国の舞台まで駆け上がっています。
現在の豪速球投手という姿だけを見ると、高校で急に現れたスターのようにも見えます。
しかし足立中時代をたどると、今につながる球速、制球力、身体の使い方、打撃力、そして横浜高校へ進むきっかけまで、かなり多くの原点が見えてきます。
この記事では、織田翔希投手の中学について、学校名だけで終わらせず、中学1年から3年までの成長、全国大会の詳しい成績、当時の練習内容、横浜高校に見いだされた経緯まで掘り下げます。
- 出身中学は福岡県北九州市小倉北区の北九州市立足立中学校
- 中学時代はシニアやボーイズではなく、足立中学校の軟式野球部でプレー
- 中学3年夏に軟式で最速143キロを記録
- 2023年夏は福岡県大会優勝→九州大会3位→全国大会ベスト16
- 全国大会では4番・投手として出場し、本塁打も記録
- 中学3年夏に横浜高校・村田浩明監督の視察を受け、のちに横浜高校へ進学
織田翔希の中学は北九州市立足立中学校
織田翔希投手が通っていたのは、福岡県北九州市小倉北区にある北九州市立足立中学校です。
北九州市が公表している市立中学校一覧では、足立中学校の所在地は小倉北区萩崎町3番1号。織田投手自身も北九州市出身で、地元の三萩野バッティングセンターでは出身地を「北九州市小倉北区」、所属を「足立中学校野球部」と紹介されています。
まずは中学時代の主要情報を整理すると、次のようになります。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 出身中学 | 北九州市立足立中学校 |
| 所在地 | 福岡県北九州市小倉北区 |
| 中学時代の所属 | 足立中学校野球部 |
| 使用球 | 軟式 |
| 投打 | 右投げ・右打ち |
| 主なポジション | 投手 |
| 打順 | 4番 |
| 中学3年時の最速 | 143キロ |
| 2023年福岡県大会 | 優勝 |
| 2023年九州大会 | 3位 |
| 2023年全国大会 | ベスト16 |
| 高校 | 横浜高校 |
選手名鑑や大会記録を照合すると、「足立中学校出身」であることと、「足立・富野中学校の選手として全国大会に出場したこと」の両方が確認できます。
ここが検索すると少し分かりにくい部分なので、詳しく見ていきましょう。
「足立中」と「足立・富野中」の違いは合同チームかどうか
織田翔希投手について調べると、「足立中学校出身」と書かれているページがある一方、大会記録では「北九州市立足立・富野中学校」と表示されています。
この2つは矛盾していません。
織田投手本人が在籍していたのは北九州市立足立中学校で、軟式野球では富野中学校と合同チームを編成して大会に出場していました。三萩野バッティングセンターも、足立中学校軟式野球部について「富野中学との合同チーム」と説明しています。
全国大会を記録しているOmyuTechでもチーム名は「北九州市立足立・富野中学校」となっており、織田投手は背番号1、投手、右投げ右打ちで登録されています。
つまり、
- 出身中学は北九州市立足立中学校
- 中学では足立中学校野球部に所属
- 大会では富野中学校と合同チームを編成
- そのため大会記録では「足立・富野中学校」と表示される
という関係です。
ネット上では「足立・富野中学校という一つの学校に通っていた」と受け取れる書き方も見られますが、学校名と合同チーム名は分けて理解したほうが正確です。
小学1年から野球を始め、中学へ進んだ
織田翔希投手は、中学校から野球を始めたわけではありません。
週刊ベースボールONLINEによると、足立小学校1年時に足立クラブで野球を始め、西日本大会にも出場。北九州サンデー選抜レッドスターズでのプレー経験もあります。
日刊ゲンダイの村田浩明監督への取材では、小学1年から野球を始め、小学3年時に投手になったことも紹介されています。
そのまま地元の足立中へ進み、学校の軟式野球部でプレーしました。
強豪硬式クラブを経由して横浜高校へ入ったという経歴ではなく、小学校の地域野球から公立中学校の軟式野球部へ進んだ選手だったことは、織田投手の経歴を理解するうえで重要なポイントです。
織田翔希は中学で硬式ではなく軟式野球を選んでいた
高校野球の全国的な強豪校で1年春からベンチ入りするほどの選手となると、中学時代からリトルシニアやボーイズリーグで硬式球を投げていたと思いがちです。
しかし織田翔希投手は足立中の軟式野球部出身です。しかも、硬式野球という選択肢を知らなかったわけではなく、本人なりに考えたうえで軟式を選んでいました。
この事実は「軟式だから成長できた」と単純化するのではなく、本人が成長期にどのような選択をしたのかを見る材料として捉える必要があります。
硬式も考えたが故障への不安から軟式を選択
高校1年時に受けた週刊ベースボールONLINEのインタビューで、織田翔希投手は中学進学時に硬式野球も考えたものの、故障への不安があったという趣旨を明かしています。
最終的に選んだのが足立中学校の軟式野球部でした。
結果論だけを見れば、この選択のあと中学3年で143キロを計測し、全国大会に出場し、横浜高校へ進んでいます。
ただし、「軟式を選べば故障しない」「中学生は硬式より軟式のほうがいい」と一般化することはできません。競技環境、体格、投球数、フォーム、休養など、故障リスクには多くの要素が関係するためです。
ここで確認できるのは、あくまで織田投手本人が当時、体への不安も考慮して軟式という道を選んだということです。
中学軟式でも全国トップクラスの高校へ進めた
織田翔希投手の経歴が注目される理由の一つは、「硬式クラブ出身でなければ全国的な強豪高校へ進めない」というイメージに当てはまらないことです。
足立中の軟式野球部でプレーしながら球速と実績を伸ばし、最終的には横浜高校の村田浩明監督自身が北九州まで視察に訪れる選手になりました。
重要だったのは「軟式か硬式か」という肩書だけではなく、試合で何を見せていたかです。
球速だけでなく、制球や変化球、身体の使い方、全国大会での投打の活躍まで含めて評価につながっていきました。
本人が故障への不安も考えて軟式を選んだことは確認できますが、「軟式なら故障しない」「軟式のほうが必ず成長できる」と一般化することはできません。 選択の背景と、その後の成長は分けて見る必要があります。
織田翔希は中学1年から注目されていた
織田翔希投手の名前が広く知られるきっかけは中学3年夏の全国大会ですが、能力そのものが突然3年生で開花したわけではありません。
後年の取材では、中学1年の時点ですでに地元のアマチュア野球を追う人物から高く評価されていたことが明らかになっています。中学2年でもエースとして結果を残し、3年で県、九州、全国へとステージを上げました。
こうした時系列を追うと、143キロという数字だけでは見えない成長過程が分かります。
中学1年秋に「佐々木朗希2世」と感じさせる投球
Number Webは、地元福岡のアマチュア野球を長年取材してきた人物が、中学1年だった織田翔希投手を10月の全軟北九州地区大会準決勝で初めて見た際、強烈な印象を受けたと紹介しています。
その人物が評価したのは球速だけではありませんでした。
直球の伸び、縦方向のスライダー、制球、フィールディングまで総合的に高く評価し、別の試合では88球で13奪三振、被安打2の完封を記録したと証言しています。
記事では「佐々木朗希2世」「20年に1人」といったインパクトのある表現も使われています。
もっとも、これらは大会主催者や連盟が認定した称号ではありません。地元で能力を評価した人物や記事上の表現なので、公式なランキングのように受け取らないことが大切です。
それでも、中学3年夏に143キロを出して突然注目されたのではなく、1年時から投球内容そのものを高く評価する人がいたことは確認できます。
中学2年ではエースとして福岡県3位の成績に貢献
中学2年になると、織田翔希投手はすでにチームのエースを務めていました。
地元の三萩野バッティングセンターは、中学2年時からエースとして「福岡県3位となる成績」に貢献したと紹介しています。
この記述では大会名までは明記されていないため、特定大会の3位と断定するのは避けたほうがいいでしょう。
それでも、少なくとも中学2年から主力投手として県レベルで結果を残していたことは分かります。
その経験を経て迎えた中学3年夏に、チームとしてさらに大きな結果を残すことになります。
中学3年夏は福岡県優勝から九州3位、全国ベスト16へ
織田翔希投手の中学時代で最大の実績となったのが、2023年夏の中学校総合体育大会です。
足立中と富野中の合同チームは、北九州市大会から福岡県大会、九州大会、全国大会へと勝ち進みました。この過程を追うと、全国大会だけを切り取るよりもチームがどれだけ長い夏を戦ったのかが分かります。
北九州市大会3位 福岡県大会への出場権を獲得
福岡県大会優勝 決勝で香椎第3中を5対3で破り、福岡県王者に
九州大会3位 全国中学校軟式野球大会への出場権を獲得
全国大会ベスト16 1回戦を突破し、2回戦で松本国際中に敗戦
北九州市大会3位から福岡県大会へ
2023年度の北九州市中学校軟式野球大会では、足立・富野中が3位に入り、福岡県大会への出場権を獲得しました。
同大会は緑丘中が優勝、浅川中が2位、足立・富野中と槻田中が3位という結果で、上位3枠に入った足立・富野中が県大会へ進んでいます。
市大会では優勝ではありません。
それでも、県大会に入るとチームはさらに勝ち上がっていきます。
福岡県大会では優勝
2023年7月27日から29日に行われた福岡県中学校軟式野球大会で、足立・富野中は優勝しました。
決勝では香椎第3中を5対3で破っています。大会結果では足立・富野中が優勝、香椎第3中が準優勝、次郎丸中と浅川中が3位と記録されています。
北九州市大会では3位だったチームが、県大会では頂点に立ったことになります。
福岡県王者となった足立・富野中は、続いて宮崎県で行われた九州中学校軟式野球大会へ進みました。
九州大会3位で全国大会出場を決めた
2023年8月の第48回九州中学校軟式野球大会では、足立・富野中が3位に入りました。
大会は鹿児島県の谷山中学校が優勝、延岡学園尚学館中学校が準優勝。足立・富野中は3位となり、全国中学校軟式野球大会への出場権を獲得しています。
したがって、中学3年夏の主要な流れは次の通りです。
- 北九州市大会3位で福岡県大会へ
- 福岡県大会で優勝
- 九州大会で3位
- 第45回全国中学校軟式野球大会へ出場
- 全国大会では1回戦を突破しベスト16
市大会からいきなり圧倒的だったわけではなく、一つひとつ勝ち上がりながら最終的に全国まで到達しているところも興味深い点です。
全国大会では4番・投手として本塁打も記録
2023年8月18日から高知県で行われた第45回全国中学校軟式野球大会で、織田翔希投手は足立・富野中の4番・投手として出場しました。
OmyuTechの公式系大会記録では、背番号1の投手として登録され、2試合とも4番・投手でスタメン出場したことが確認できます。
現在は投手として注目される織田投手ですが、中学時代は打線の中心でもありました。
1回戦は10対3で勝利し、自ら左越え本塁打
全国大会1回戦の相手は京都府代表の福知山市立日新中学校でした。
足立・富野中は初回に2点を先制すると、3回に7点を追加。最終的に10対3で勝利しています。
織田翔希投手は4番・投手として先発。
3回の打席では初球を捉えて左越えのソロ本塁打を放ち、さらに6回にも左中間への二塁打を記録しました。
投手としても2回2/3を投げ、被安打1、3奪三振、無失点。いったん遊撃へ回るなど守備位置を変えながら起用されています。
「4番投手」というだけでもチーム内での立場が分かりますが、全国大会という舞台で実際に本塁打を放ったことで、打撃力も数字として記録に残りました。
2回戦では6奪三振も松本国際中に敗戦
翌8月19日の2回戦では、長野県代表の松本国際中学校と対戦しました。
足立・富野中は3安打に抑えられ、0対3で敗戦。全国大会はベスト16で終えています。
この試合でも織田翔希投手は4番・投手で先発しました。
投手として3回を投げ、被安打3、6奪三振、3失点、自責点2。打者としては2回に右翼への二塁打を放っています。
敗戦ではありましたが、3イニングで6奪三振という数字からも、全国レベルの打者を相手に三振を奪う力があったことが分かります。
全国大会通算は打率4割超、投手として9奪三振
2試合だけでなく、全国大会通算成績を見ると織田翔希投手の「二刀流」ぶりがより分かりやすくなります。
| 成績 | 全国大会2試合通算 |
|---|---|
| 投球回 | 5回2/3 |
| 被安打 | 4 |
| 奪三振 | 9 |
| 与四球 | 2 |
| 失点 | 3 |
| 自責点 | 2 |
| 防御率 | 3.18 |
| 打数 | 7 |
| 安打 | 3 |
| 打率 | .429 |
| 本塁打 | 1 |
| 得点 | 2 |
OmyuTechでは、投手として5回2/3で9奪三振、防御率3.18。打者として7打数3安打の打率.429、本塁打1本と記録されています。
現在の織田投手を知っている人ほど「143キロを投げた中学生」という部分に目が向きますが、全国大会では打撃でも結果を残していました。
投手一本の選手というより、当時は投げて、打って、試合の中心にいる選手だったと考えたほうが実像に近そうです。
織田翔希は中学3年で軟式最速143キロを記録
織田翔希投手の中学時代を語るうえで、やはり外せない数字が最速143キロです。
週刊ベースボールONLINEは、足立中3年夏に軟式で143キロを計測したと紹介。三萩野バッティングセンターも、全国中学校軟式野球大会で最速143キロを記録したと伝えています。
中学生という年齢に加え、硬式ではなく軟式球でこの速度を記録していたことから、全国的にも名前が広がりました。
三萩野バッティングセンターでも中学生部門1位を2度獲得
織田翔希投手は、中学の部活動だけで練習していたわけではありません。
地元・北九州市小倉北区の三萩野バッティングセンターにも通っており、同施設が実施する投球スピードランキングの中学生部門で2度1位になったと紹介されています。
これは全国大会の一度だけ偶然速い数字が出たという話ではなく、地元でも速球を投げる中学生として継続的に目立っていたことを示すエピソードです。
一方で、バッティングセンター内の計測値と公式戦で使われるスピードガンの数値は測定条件が異なります。
そのため施設ランキングと全国大会での143キロは同一条件の数字として比較せず、「地元でも球速の速さで知られていた」という意味で捉えるのが適切です。
「佐々木朗希2世」は公式な異名ではない
中学時代の織田翔希投手には、「佐々木朗希2世」という呼び方も見られます。
三萩野バッティングセンターの記事にもこの表現が使われ、Number Webでも中学1年時に投球を見た地元野球関係者が佐々木朗希投手を連想したことが紹介されています。
ただし、もちろん公式な称号ではありません。
同様に「20年に1人」という評価も、特定の野球関係者による能力評価として紹介されたものです。客観的な事実として押さえるべきなのは、143キロ、県大会優勝、九州大会3位、全国大会出場、全国大会での9奪三振と本塁打といった実績です。
派手な異名だけではなく、数字と公式戦記録を合わせて見るほうが中学時代の実力を正確に理解できます。
- 「佐々木朗希2世」は大会主催者などが認定した公式な異名ではありません
- 「20年に1人」という表現も、特定の野球関係者による評価として紹介されたものです
- 実力を見る際は、143キロ、県大会優勝、九州大会3位、全国大会での9奪三振・本塁打といった記録を軸にすると分かりやすいです
中学時代はどんな練習をしていた?
143キロという球速を見ると、特別なトレーニングばかりしていたのではないかと思ってしまいます。
ところが、中学卒業間近に三萩野バッティングセンターが行った本人への質問を見ると、挙げている自主練習は意外にも基本的なものです。
重要なのは、派手な練習メニューより、本人が何を意識して取り組んでいたかでしょう。
素振り、ランニング、シャドーピッチング、縄跳びを継続
当時、織田翔希投手がバッティングセンター以外で行っている練習として答えていたのは、次の4つでした。
- 素振り
- ランニング
- シャドーピッチング
- 縄跳び
いずれも中学生が取り組める基本的なメニューです。
もちろん、この4つだけをすれば143キロを投げられるという意味ではありません。
生まれ持った身体能力、学校での練習、投球フォーム、試合経験などさまざまな要素が重なっています。それでも本人が日常的な自主練として基本動作を繰り返していたことは、華やかな球速記録とは違う一面です。
打撃では力任せにせず体全体を使うことを意識
打撃についても本人は興味深い回答を残しています。
バッティングセンターで心がけていたのは、腕力だけで打とうとせず、身体をしっかり使って打つことでした。
全国大会で本塁打と二塁打を記録したことを考えると、4番を任されていたのは単に体が大きかったからではありません。
力任せに振るのではなく、身体全体を使う意識を中学生の段階から持っていたことが分かります。
自分の課題には「体づくり」を挙げていた
当時の織田翔希投手が自分自身の課題として答えていたのが体づくりです。
一方、自分の長所については制球の良さとキレのある真っすぐを挙げていました。
目標とする投手像も、単に速い球を投げるだけではありません。キレのある直球と変化球を狙った場所へ投げ、精神面でも強い選手になることを目標にしていました。
さらに好きなプロ野球選手には山本由伸投手を挙げています。
理由として注目していたのは、制球力に加え、速い球と遅い球を使い分ける投球です。中学生の時点で「球速だけ」ではなく、制球や緩急まで含めた投手像を意識していたことが分かります。
横浜高校は織田翔希をどうやって見つけた?
中学軟式の選手だった織田翔希投手が、なぜ北九州から神奈川県の名門・横浜高校へ進むことになったのでしょうか。
ここは「全国大会で有名になり、そのまま横浜高校にスカウトされた」と一行で済ませるより、村田浩明監督との出会いまで追ったほうが経緯がよく分かります。
後年、村田監督本人がそのときの状況を明かしています。
村田浩明監督が中学3年夏に北九州へ視察に来た
2023年7月26日、横浜高校は夏の神奈川県大会決勝で慶応高校に敗れました。
日刊ゲンダイによると、その直後、村田浩明監督は日本体育大学時代の先輩から織田翔希投手を紹介され、北九州まで視察へ向かっています。
そこで初めて中学3年の織田投手を直接見ました。
驚くのは、この時期になっても織田投手の高校進学先がまだ固まっていなかったことです。
村田監督自身、有望な中学生であれば夏の時点で進路の方向性が決まっていることが多い中、織田投手はまだ決まっていなかったと振り返っています。
偶然いくつもの条件が重なり、横浜高校と北九州の中学生がつながったことになります。
村田監督が評価したのは身体の使い方の柔らかさ
村田浩明監督が織田翔希投手を初めて見たとき、強く印象に残ったのが身体の使い方の柔らかさでした。
これは重要なポイントです。
中学3年で143キロという数字は非常に分かりやすい武器ですが、横浜高校側が見ていたのはスピードガンの数字だけではありませんでした。
まだ成長途中の身体でどのようにボールへ力を伝えているのか、今後さらに伸びる余地があるのか。
村田監督の証言からは、そうした素材そのものを評価していたことがうかがえます。
結果として織田投手は横浜高校へ進み、入学後さらに球速を伸ばしていきました。
織田翔希が横浜高校を選んだ理由
横浜高校側が織田翔希投手を高く評価したとしても、最終的に進学先を決めるのは本人です。
北九州から遠く離れた神奈川県の横浜高校を選んだ理由については、本人自身が複数の取材で語っています。そこには「名門だから」という一言だけでは説明できない要素がありました。
松坂大輔への憧れと横浜高校の伝統
高校1年時の週刊ベースボールONLINEのインタビューで、織田翔希投手は横浜高校を選んだ理由を語っています。
甲子園を通じて横浜高校を見ており、伝統のある学校だと感じていたこと、そして横浜高校OBの松坂大輔さんのような投手になりたいという思いがあったことを明かしました。
松坂さんの高校時代の映像も調べ、自分も同じ舞台でプレーしたいと考えていたそうです。
中学時代に好きな現役投手として山本由伸投手を挙げていた一方、進学先を考えるうえでは横浜高校の歴史を象徴する松坂大輔さんへの憧れも大きかったことになります。
学校見学で感じたグラウンドと挨拶も決め手に
横浜高校への進学理由は、松坂大輔さんへの憧れだけではありません。
日刊ゲンダイが紹介した本人の言葉によると、学校見学へ行った際、グラウンドにゴミが落ちていなかったことや、選手の挨拶が素晴らしかったことにも魅力を感じています。
つまり、進学理由を整理すると、
- 甲子園で見てきた横浜高校の伝統
- 松坂大輔さんへの憧れ
- 同じ舞台でプレーしたいという思い
- 実際に見学して感じた環境の良さ
- 横浜高校の選手たちの挨拶や姿勢
といった複数の要素が重なっていたと考えられます。
「強豪から声をかけられたから行った」とするだけでは、本人が語っている進学理由を十分に説明できません。
中学143キロから高校では最速157キロへ
織田翔希投手の中学時代を現在につなげて見ると、143キロは完成形ではなく成長途中の数字だったことがよく分かります。
足立中3年夏に143キロを計測した後、横浜高校では1年春からベンチ入り。高校1年秋には150キロを投げる右腕となり、その後も球速を伸ばしました。
2026年夏には最速157キロ右腕として横浜高校のエースを務めています。7月26日の神奈川県大会決勝でも先発し、横浜高校を夏の甲子園出場へ導きました。
高校で突然速くなったわけではない
高校入学後に球速が伸びたことは確かですが、その土台は中学時代からありました。
中学1年時には制球や変化球、フィールディングまで評価され、中学2年ではエース、中学3年では143キロを記録して全国大会へ出場しています。
そして横浜高校の村田監督が直接見た際には、身体の使い方の柔らかさを高く評価されました。
「中学143キロ、高校157キロ」という数字だけを並べると14キロの球速アップだけが目立ちます。
しかし実際には、中学時代に形成された投球フォームや制球感覚、全国大会での実戦経験などを土台に、身体の成長と高校での練習が加わったと見るほうが自然でしょう。
なお、「軟式だったから157キロまで伸びた」と因果関係まで断定できる資料はありません。
軟式を選んだことと、その後球速が伸びたことは事実ですが、両者を直接結びつけるのは避けるべきです。
中学3年の143キロと高校での157キロは確認できる事実ですが、「軟式だったから157キロまで伸びた」と因果関係を断定できる資料はありません。 中学時代の基礎に身体の成長や高校での練習が重なったと見るのが自然です。

織田翔希の中学時代で特に注目したいポイント
織田翔希投手の足立中時代を細かく追うと、単に「143キロを投げた天才中学生」というイメージだけでは収まりません。
中学1年から評価され、2年でエースを任され、3年で県大会優勝、九州大会3位、全国大会ベスト16。さらに4番打者として全国大会で本塁打を放ち、その夏に横浜高校の村田監督と出会っています。
とくに注目したいのは、次の点です。
- 公立の足立中学校で軟式野球を続けていた
- 中学1年時から投球内容を高く評価されていた
- 中学3年夏に最速143キロを記録した
- 福岡県大会優勝、九州大会3位、全国ベスト16を経験した
- 全国大会では4番・投手として打率.429、本塁打1本を記録した
- 村田監督は球速だけでなく身体の使い方の柔らかさを評価した
- 横浜高校進学には松坂大輔さんへの憧れと学校見学で受けた印象が影響した
こうして並べると、横浜高校での活躍は中学卒業後にゼロから始まったものではないことがよく分かります。
足立中で積み上げた3年間と、全国大会まで進んだ最後の夏が、次の環境へ進むきっかけになりました。
織田翔希の中学についてよくある疑問
織田翔希投手について検索すると、学校名、合同チーム、143キロ、軟式野球、横浜高校への進学など、似た情報がさまざまな形で出てきます。
最後に、特に混同されやすい点を、確認できる記録に沿って詳しく整理します。
織田翔希の原点は足立中の軟式野球にあった
織田翔希投手の出身中学は、福岡県北九州市小倉北区にある北九州市立足立中学校です。
現在の最速157キロという姿からは、幼いころから全国規模の硬式クラブで英才教育を受けてきた選手を想像するかもしれません。しかし実際には、地元の公立中学校で軟式野球を続けながら力を伸ばしました。
中学1年時には地元の野球関係者から投球内容を高く評価され、中学2年からエースとして活躍。
中学3年夏には足立・富野中の中心選手として福岡県大会優勝、九州大会3位を経験し、全国中学校軟式野球大会へ進みました。
全国大会では4番・投手。
投げては2試合で5回2/3を投げて9奪三振、打っては打率.429、本塁打1本という成績を残しました。そして同じ夏、北九州まで視察に来た横浜高校の村田浩明監督と出会うことになります。
本人が中学時代に続けていた自主練習は、素振り、ランニング、シャドーピッチング、縄跳びという基本的なもの。
打撃では力任せにせず身体全体を使うことを意識し、自らの課題には「体づくり」を挙げていました。好きな投手だった山本由伸投手についても、速球だけでなく制球や緩急に注目しています。
こうして振り返ると、中学時代の最速143キロは確かに大きな数字ですが、それだけが織田翔希投手の原点ではありません。
公立中の軟式野球部でエースと4番を任され、県大会、九州大会、全国大会を経験したこと。速球だけではなく制球や身体の使い方を磨き、自分の課題として体づくりも意識していたこと。そして全国へ進んだ最後の夏に横浜高校との縁が生まれたこと。
足立中で過ごした3年間を追っていくと、横浜高校で157キロを投げるまでになった現在の姿は、突然現れたものではなく、北九州で積み重ねてきた成長の延長線上にあることが見えてきます。
- 出身中学は北九州市立足立中学校
- 中学では軟式野球部でエースと4番を担った
- 中学3年夏に143キロ、福岡県大会優勝、九州大会3位、全国ベスト16を経験
- 全国大会での投打の活躍と中学時代の成長が、横浜高校への進学につながっていった









